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全教のとりくみ
【行動】2007/09/30
教科書検定意見撤回を!9・30学習交流集会【講演】前半
【講演】  山口 剛史(琉球大学教育学部 准教授) 
 
 みなさん、おはようございます。ご紹介いただきました山口です。
 ここまでの運動の到達と今後の運動の課題を紹介させていただくことと、問題のいわゆる政治的な背景を含めた部分をかいつまんでご紹介し、その後の各県交流でその中で疑問等も出していただければと思います。

一致点を一つにやったことで大きな県民運動に 
 
 3月30日にこの問題が正式に発覚して、「よくここまできたな」というのが実感です。保守派を動かす草の根の運動をきちっと積み上げてこれたことが大きな確信になっています。その中で、教職員組合の果たしてきた役割は非常に大きかったと理解しています。
 この運動で一番大事だったことは、一致点を限定したことです。とにかく「教科書に歴史の真実を」という、一致点でとりくみをつくったということが、一番の教訓だと思っています。
 今回の教科書検定が、歴史の歪曲なんだということをきちっと解明をして、説明をしていくことに、最初の1~2カ月かかったと思います。そういうことを教科書の分析も含めて地道にあちこちで、県議、市議も含めて丁寧にやりました。とにかく「検定撤回を目標に意見書を出してほしい」――そこは絶対にブラしてはいけない。すべての市町村議会の事務局そして、紹介議員になれる人たちに、私たちでモデルの意見書をつくって、「これで意見書をあげてほしい」という要請を事細かにやっていったんですね。そうした地道な作業が後で、とっても大きく功を奏していった。実際に、渡嘉敷、座間味まで行って、「是非あげてほしい」と、そういうことをやってきたことが、5月14日を皮切りに、6月22日の県議会決議にまで――約1~2カ月近い時間をかけて、すべての議会であげるということにつながりました。
 
 しかし正直言って、こんなに集まるとは思いませんでした。大会の2週間くらい前からですかね、毎日、『沖縄タイムス』『琉球新報』には「実行委員会ができた」とか、「呼びかけしている」だとかの報道がずっと流れていましたけれども、一切足元の盛り上がりを実感できる状況ではありませんでした。ですから、「これはバブル報道だ」というくらい、僕らは危機感を持っていました。
 昨日は12時頃、私は会場に行ったんですけれども、12時くらいから場所取りがはじまって、人がわさわさし始めて、まわりの食堂も一杯になって、13時になると人がぞろぞろ入ってくるというような状況でした。「これはもしかしたら成功するかもしれない」「3時間前からこれだけ人がいるということは、大きな成功をするかもしれない」という期待をしながらおりました。案の定、大成功でした。
 終わった頃に着く人はまだ良い方で、終わっても着かない人がたくさんいるという状況でした。何しろバスセンターから、満員で出発したため、どの停留所でもとまれない、そのため乗れない、そういう人がたくさんでた。「本当に大きな大会になってよかったな」と、終わった後いろんな人と握手をしながら、この半年間を振り返ったところでした。
 
 私がいま一番言っていることは、一つは、一致点を一つにやったことが大きな県民運動になったということ。もう一つは、これが沖縄の要求、いわゆる体験をゆがめる問題ではありますけれども、同時に日本全国の歴史認識、歴史事実の問題なんだということです。この観点が大きな全国の連帯を広げることになったんだと思う。これはやっぱり日本全体の教科書の話ですから日本の問題だと、日本の歴史をどう総括するのか、語るのかということの問題である。ということで大きな全国連帯が広がったということが、教訓だろうと話しています。全国の方と話をする時にも、「みなさんと一緒に結び合えてがんばれていることが非常にうれしいんだ」と言っています。今日もそういう趣旨で話しています。
 昨日も、国立の意見書決議をあげた人が市長のメッセージを持って来るとか、練馬で一生懸命陳情をやっている人が来て署名活動していたりしました。おもしろいことに、いま練馬では公明の人たちが渋っているんですが、そうすると会場に来た創価学会の人に署名を取りに行くと、「私たちから言うから練馬の公明党に言うよ」というような話になったりする。そのように、全国でこの問題を自分たちの問題としてとりくんでいる人たちがたくさんいる。国立でも朝から駅前で街頭宣伝をやって、午前中500枚のビラがあっという間に撒けて、夕方から増し刷りしてまた撒いて、結局900枚も撒ききったと言っていました。沖縄に来ている代表の人が、電話で状況を中継して、それをまた街頭宣伝するという、そういう共同行動が広がっているのを真横で見ながら、大会に参加していました。いま各地で意見書決議があがっていますよね。そういうことも大きな力にしたいと思っているところです。

 
いま教科書でどこまで沖縄戦が書かれているのか 
 
 先に教科書の話だけ、しておきたいと思います。いま、全国の教科書でどこまで沖縄戦が書かれているのか。
 教育出版の『小学校社会科6年上』(全国的にもよく使われているもので沖縄でもシェアの高い教科書)。
 「1945年(昭和20)年4月、沖縄島に焼く20万人のアメリカ軍が上陸し、住民をまきこんだ激しい戦闘となりました。今の中学生・高校生くらいの男子生徒は、日本軍とともに戦い、女子生徒は負傷兵の看護などにあたりました。日本でゆいいつのこの地上戦で、県民60万人のうち、12万人以上の人々がなくなりました」
 これだけなんですね。続いて中学校も見てみましょう。
 東京書籍の『中学校社会科歴史』(親方日の丸で有名な東京書籍です)。
 「1945年3月、アメリカ軍は沖縄に上陸し、激しい戦闘が行われました。沖縄の人々は、子どもや学生を含めて、多くの犠牲者を出しました。沖縄戦のあと、アメリカ軍は、九州に上陸する用意を進めました」とあって、隣にアメリカ軍の戦車の写真があって、犠牲者の数が載っている。これだけなわけです。
 
 最後に高校の教科書。
 山川出版の『高校日本史B』(これが今回の検定の前の年に自主規制で減らしていた教科書です。ですから今回の検定の問題の1年前に、それを示唆するような自主規制があったということを確認していただくことと同時に、これがいまの沖縄や全国で4割近く使われている教科書だということです)。
「沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、付近の2つの飛行場を制圧し、島を南北に分断した。この間、日本軍は特攻機を投入した航空総攻撃をおこなったが、アメリカ艦隊を沖縄海域から撃退することはできなかった。沖縄を守備していた日本軍は、アメリカ軍を内陸に引き込んで反撃する持久戦態勢をとったため、住民をまき込んでの激しい地上戦となり、敗残兵や避難民にしだいに島の南部に追い詰められていった。6月23日、組織的な戦闘は終了した。日本軍の戦死者は6万5000人に達し、一般県民も10万人以上が戦没した。沖縄県は1995年、沖縄戦で亡くなった全戦没者(アメリカ側も含む)の名を刻印した『平和の礎』を建設した」
 
というようにあります。

 
教訓を学ばなければ沖縄戦を学んだことにならない 
 
 いずれも見ていただくとわかりますように、沖縄県民・住民がどのように戦争に巻き込まれ、死んで行かざるを得なかったのか。住民虐殺やいわゆる「集団自決」も含めた住民が死に至らしめられる、と言いますか、どのように死に向かわせられたのか、ということは一切かかれていない教科書になっているわけです。
 ですから、素直に教科書どおりの授業を6・3・3の12年間やられた場合に、どういう沖縄戦認識ができあがるのかを考えた時に、私たちは非常に不十分だろうと思っています。
 何が欠けているのかと言うと、先ほども言いましたけれど「住民がいかにして死んだか」。もっと言いますと沖縄戦で一番学ばなければいけないことは、「軍隊は住民を守らなかった」という教訓が戦争を通じてわかったことだと思うんです。さまざまなアジアの国々を侵略し、人権侵害どころか、多くの生命、財産を奪ってきた日本軍という組織は、最終的には自国民に対しても銃を向け、その命を奪っていく。それが軍隊という組織の構造的な暴力装置としての特筆であると、それはなんのためにそうなったかというと、軍隊というものは、そもそも住民の命や財産を守るために組織ではなく、天皇、当時でいう天皇制を守る、国家体制を守るためだけの組織である。そういうことを私たちはこの戦争から学んだはずです。だからこそ、戦後の憲法は、戦力の不保持と平和主義をとったわけですよね。
 そうした教訓が、垣間見えさえしない教科書になるということは、沖縄戦を学んだことにならないわけです。沖縄戦で「いつ、どこで米軍が上陸したか」といったことは、もちろん事実確認としては大事ですけれども、本当に学ぶべき教訓というものは、いまの小・中・高の教科書にふれられていない、ということを私たちは危機感を持って、教育の問題として考える必要がある。
 それは沖縄戦のことだけではなくて、アジア・太平洋戦争をどのように私たちは総括し、語るのか、教えるのか。そういった時に、やはりその観点というものが、どのように連なるのかということです。だからこそ、昨日大会で発言した高校生が、「加害の実相を正面から、どんなに悲惨で厳しい現実であっても、それを見なければならない。そこからしか始まらないんだ」と言ったことは、やはりそういうことなんだろうと思います。

 
沖縄戦の実相で抑えておきたいこと 
 
 ひとつだけ、沖縄戦の実相で抑えておきたいポイントだけ、みなさんに話したいと思います。『沖縄タイムス』が、『いま軍命を問う』というシンポをやった時の金城重明さんのお話があります。僕自身はこれを使いながら最近は話しているのですが、ちょっと読んでみたいと思います。
 「このとき、軍と最後を遂げるという脅迫感があった。住民には軍とともに命運を共にするという『軍官民共生共死』と、天皇のために命を捨てることは尊いことだという皇民化思想があった。決して自発的に死のうという意識はなかった」とあります。もうひとつ、「住民の生命を含め、島は一木一葉に至るまで日本軍の支配下にあった。軍にとって住民を死に追い込むのはいとも簡単なことだった。沖縄戦において軍は最高の権力を握り、住民をしに追い込んだことがまず重大な問題だ」と、このように書いてあります。
 当時の沖縄戦の状況を考えますと、基本的に1944年の3月に第32軍という軍隊が沖縄にやってきます。これが「沖縄守備軍」と称して北は奄美から、南は波照間、与那国まで管轄する部隊。当初は、飛行場をたくさんつくって、航空作戦による敵の撃滅を図ろうとしました。そのためにたくさんの飛行場をつくりました。その名残が那覇空港であり、嘉手納基地であり、読谷補助飛行場であり、ここの直ぐ近くのキャンプ・キンザー(牧港にある海兵隊補給基地)であり、石垣や宮古の飛行場であるわけです。伊江島もそうですね。
 その作戦が第9師団という部隊の台湾への移動による戦力の弱体化等あり、作戦の変更があって各山、丘陵すべてに陣地をつくっていく。それこに多くの住民を動員するということになるわけです。その時につくられた方針は、まさにここにある「軍官民共生共死」なんですね。第32軍は牛島満という司令官です。彼はこの軍を動かしていく上で、いろいろな方針を訓示として述べているわけですけれども、その中で一つは「一木一草と言えと言えども戦力化すべし」と、このように言っているわけです。まさに、島の財産をすべて使ってでも、この島を基地にする。これを沖縄戦研究では「全島要塞化」と呼んでいます。
 それだけ各地にたくさんの陣地がつくられる。中には、沖縄のお墓をくり貫いてまで砲台をつくっていく、陣地をつくっていく。そういう跡がいまも残っています。そういうことをしてまで日本軍は戦争の準備をしたわけです。そこに住民をすべて動員する。それは単純に勤労動員的なものではなく、防衛隊という臨時防衛召集規則にもとづく、いわゆる軍人、兵隊を臨時に集めていく、また学徒を動員する。そういうことで、すべて戦力化していくわけです。これを通常「根こそぎ動員」という言葉を使うわけです。まさに足腰立つものはすべて軍に動員していくわけです。このような体制の中で沖縄戦というものが始まっていく。
 その時に、沖縄県のピラミッドの頂点にいるのが、当然32軍の司令官であり、軍隊なんです。この軍隊が、どのように住民を動かすかというと、住民に直接軍隊が命令するということはあり得ないわけです。それは当然、間にある「官」というものを使って動かしていく。それが小さな島であればあるほど、よりダイレクトにかかわってくるわけです。ですから、渡嘉敷島、座間味島の場合、そういう意味では村長、それから一番大きな役割を果たしたと言われている「兵事主任」という、いわゆる兵事係。徴兵制を司る人たちですね。赤紙を配ったり、徴兵事務をするこの「兵事主任」が一番大きなポイントを持っていたわけです。通常「兵事主任」の仕事は、軍隊からあがってきた人がやりますから、十分軍隊にも精通をしている。彼らが軍の指示を得て、「何人出してくれ」とか、「青年団集まって何しろ」だとか、そういうことをやる。もちろん青年団も大きな役割を果たしている。
 そして、在郷軍人会、一旦兵役を終えて戻ってきた人がいますよね。そして、いわゆる国防婦人会、大日本婦人会というような婦人組織。こういうものをつくって、まさに天皇制支配というものを隅々にまでいきわたらせる。これが当時の特徴なわけです。
ですから、その支配構造をきちっと抑えておかないと、さもですね、「住民が具体的にどこに逃げるか」とか、「生き死にを選べるようなことがあった」かのようにみなさん認識されるわけですけれども、一切そういうことはない。そこまで含めてきちっと管理をされている。
 特に渡嘉敷、座間味というところは海上挺身隊、特攻艇の基地でしたので非常に秘密、防諜の管理も厳しかった。ですから、座間味では梅澤部隊の腕章を縫い付けてなければ(印鑑を押した布を配っているんですね)――「スパイだ!」と。ここまで住民管理を徹底するわけです。そういう状況に戦時体制そのものがあったわけです。軍隊というものがそういう中で「戦陣訓」を教え、「大詔奉戴日」(いわゆる真珠湾攻撃の日)での儀式にさまざまな訓示をしたりする。そういう中で「いかに行動すべきか」ということをずっと刷り込んできた。それが昨日の県民大会で吉川さんたちの証言とか、宮川ハル子さんたちが話したような具体的な状況につながっていく話なわけです。
 ですから、そういう点では手榴弾を配ることを含めて、すべて軍の命令であり、軍の許可(その時の島を実権的に掌握しているのは、渡嘉敷でいえば赤松(当時:渡嘉敷島戦隊長・大尉)、座間味でいえば梅澤(当時:座間味島戦隊長・少佐)ですから、彼らの指導方針、許可、命令なしに、何も動かせない。これが支配構造の基本的システムですね。上官の命令を聞かずに勝手なことをしたら、軍隊組織というものは戦争できないわけです。「すべて死ね」と言えば「死ぬ」ように非人道的に仕込んでいくのが軍隊組織ですから、そこまでされている組織が自由に「手榴弾を渡してあげた」とかですね、そんなことは、絶対に起こりえないわけです。
 そういうことを今回、軍の「隊長命令の有無がわからなくなった」とか、裁判を理由に教科書を変えたということは、そもそもが間違っているわけです。「すべて軍命なんだ」「こういう支配構造で理解をしなければならないんだ」ということを飛ばして、「あの夜に『自決』の直前に隊長が、口で住民に対して命令をしたか」という一点に彼らは絞っているわけです。
 「隊長命令あったか?」⇒「誰も聞いていないじゃないか」⇒「あるわけないじゃないか」という話をする。これが矮小化された彼らの特異な論理展開なんです。「従軍慰安婦」の時もそうです。各中国戦線や東南アジアにおいて、沖縄でもそうですが、慰安所をつくって性奴隷にする。そういうことをさせたということは否定できないわけです。でも、「いや朝鮮半島で、いきいなり日本の軍隊がやってきて、髪の毛をつかんで慰安所へ連れて行った、そんな人がいるか?」という話をするわけです。これはいわゆる「従軍慰安婦」の軍による強制連行。これがなかったから「なかった」とする。
 このように極めて矮小化し、事実関係として明白な証言がないと思われることを取り出してきて、全体を否定する。ですから、私たちは裁判でもそうですけど、この土俵に乗ってはいけない。この論争に乗って「イエス」「ノー」を議論することは問題じゃないんだということがとっても大事になっている。裁判の中でも、非常に重要な論点になっているところです。ですから、あの時におかれた沖縄県民の状況とかを上手に、私たちは具体的に把握をしながら、語る必要があるんだろうなと思います。そういう時に、今回は「軍の関与」という言い方で県議会決議はなされましたけれども、少なくとも、そういう支配体制の中では、強制・強要・命令・誘導がなければ、絶対に家族同士が殺し合うなんてことはできないわけです。そのことを私たちは確認していく必要があるんだろうなと思っているわけです。
 そういう状況をこれまでずっと言い続けてきたわけです。けれども、なかなかこれが沖縄戦の認識としての定着を、必ずしも全国的なものにしてきたとは言い難い。再度私たちはこれを学びながらやる必要があると思っています。

 
>>講演の後半は コチラ!

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