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全教のとりくみ
【行動】2007/03/11
改悪教育基本法の具体化をゆるさず、民主教育をすすめる学習・討論集会【講演①/2】
【講演】堀尾 輝久 民主教育研究所 代表(東京大学名誉教授)

※本稿は、3月11日に開催された「改悪教育基本法の具体化をゆるさず、民主教育をすすめる学習・討論集会」での講演を、本HP管理者がまとめたものです。

 
 おはようございます。
 今日の学習会は、山口さんが基調報告をなさいますので、私は前段的なものだと位置づけてください。と申しますのは、テーマそのものがそういうことになると思います。今日掲げられている教育基本法の具体化を許さずという、そのテーマからすぐにみなさんが思い浮かべるのは、昨日の教育3法に関しての中教審の答申をどう分析・批判するのかということになると思います。 あるいは、学力テストの実施に対してどのような批判をするのか、その辺は、たぶん山口さんが丁寧に言われるんだと思うんですね。
 
 私は、昨年とにかく教育基本法改悪反対の理論闘争をやってきた一人です。〝教育基本法が改悪されたところでどういう対応をすればいいのか〟――そういう意味では、私の一つのテーマは憲法と新・旧教育基本法。そして、その新法の合憲的解釈はありうるのかについて前半は話したいと思います。
 昨年、教育基本法の改悪に反対する論理を私たちはどのように立てたのかということを、この際、思い起こしておく必要があると思います。そして、その改悪そのものが憲法「改正」の問題とワンセットになってすすんできているということが、その後の事態、あるいは安倍首相の発言をみていると非常にはっきりしている。防衛庁の省への昇格、さらには国民投票法の提起、そういう流れの中に教育基本法改悪が位置づいていることは確かです。
 

改悪教育基本法は憲法の精神に則っての解釈を

 その改悪教育基本法に対して、私たちはまず論点の第1として憲法と教育基本法の関係をどうとらえるのか、というところで批判をしました。
 「改正」された新法なるものは、憲法との関係をまず断ち切るということがあるわけですよね。ご存知のように旧法は「われらは先に日本国憲法を確定し」というところからはじまり、「その実現を教育の力に待つ」という文章が第1パラグラフに書かれていたわけですけれども、そこのところがばっさりと切られた。そこにはまさに憲法と教育基本法の関係を断ち切り、そして教育基本法を変えた後には憲法を変えるんだという戦略が見えているわけです。
 前文の、いうなれば端的な人間像の表現にしても、「真理と平和を希求する人間」という言葉が「真理と正義を希求し」云々という形になっている。そこにも平和に対する基本的な態度があらわれていると思うんです。その辺を私たちはかなりしつこく批判してきたわけです。
 
 しかし、次のパラグラフのところに「憲法に則り」というところが残っている。それでは果たして、憲法の精神に則った「改正」なのかどうかということが、その次には吟味されてもいいという論理になるわけです。
 そのように問題を立てた場合に、前文もそうですし、第2条の「教育目標」の新設があります。これは旧法の「教育の方針」に変えて、「教育の目標」を設定した。この元の教育基本法の第2条は非常に大事なことが書かれているわけです。「学問の自由の尊重」――そして「自主的な精神」「自他の敬愛」――そういう言わば教育を行う場合の原理が書かれている。「方針」とは言うけれど、あれはまさに「プリンシプル・オブ・エデュケーション」(教育の原理・原則)。それがばっさりきられて、「教育の目標」として20を超える徳目が並べられた。
 この問題に関しても、そもそも基本法に何を書くべきか、〝良いことは何でも書いていい〟ということではないはずです。近代法の精神から考えれば、あれはまったく余計な事が書いてある。書いてはいけないことが書いてあるということが、批判の論点の第1にまずあったわけです。
 
 そういう論点を含んで2条を批判し、そしてその先に、とりわけ「公共心」「国を愛する心」というようなものを法律に書くということが、どういうことになるかということを批判したわけです。国会では、「愛国心は評価できないんではないか」というような答弁を引き出してきた。
 その2条の問題に重ねて、もうひとつ問題なのが元の教育基本法第10条です。「教育行政」が16条に変わり、17条が設置される中で、「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を負う」という条文が大きく変えられたわけです。そして、元の教育基本法で「教育行政」は、「その目的を実現するに必要な条件整備をする」とし、その「任務」は何かということと同時にやってはならないことを含めて、10条の第2項があったわけです。教育と教育行政の関係というのは、教育こそが主人であり、そして教育行政はそれをサポートするものだという構造になっている。しかし、新法の16条はまったくそうではない。「不当な支配に服することなくこの法律及び他の法律にもとづいて」という書き方になっているわけですよね。そこのところが、元の教育基本法と大きく変わって、教育を行政の、言うなれば従属物にしてしまおう、〝法律に従えばいいんだ〟という仕方で、何でも法律で縛る。
 あの条文の解釈は、国会でも、「学習指導要領、あるいは通達も『その他の法律』に入るんではないか」とさんざん議論がかわされたわけです。
 
 10条を16条に変え、さらに17条の「教育振興基本計画」の条文ができた。そこでは「政府」が主語になり、政府が長期計画をつくり実施をする。そして、それを国会で報告すればいいということになる。16条で学校と教師は法律に縛られる。次の17条では、政府にフリーハンドを与えている。ということは、政府が変われば当然政策が変わってくるわけです。教育というものが本当に不安定なことになるではないか、という批判をしてきたわけです。
 教育観が基本的に違っている。国家と教育の関係のとらえ方が大きく違っています。元の教育基本法は、まさに教育を「人間の権利」として、「子どもの権利」を中軸にしてその人間的成長と発達を保障する、そのための仕組み、あるいは行政のあり方というものが規定されている。けれども、新法では〝教育を主宰するのは国だ。そして、法律にもとづけば何でもやれるんだ〟としている。人権としての教育の発想を大きく転換しているというところに、批判の論点があったわけです。
 

改悪教育基本法の具体化を許さない 憲法に則った法解釈を

 そういう批判の論点というものは当然、改正されても論点としては生きているわけです。では、そのうえで私たちはどう対応するのか。これは実は法学者的な感覚から言うとなかなかしんどいわけですよね。「悪法反対だ」というだけで、悪法が通ったから研究者たちの任務は終わるのかというとそうではない。私も教育法学会の会長でした。そういう研究者的な視点から言うと、この「改正」された法律というものは、現にあるわけだから、今度はその解釈の仕方として、それを憲法に違反しないような仕方で解釈しなくちゃならない。こうした枠組みを突き出すことによって――「何でも法律で決めればいいんだ」「憲法の精神にも反するような法律のあり方も可能だ」というようなことは決して許さないということが求められている。そういう意味で言うと「憲法の精神に則り」という言葉がこの改悪教育基本法の中に残っていることは、非常に大事なわけです。それを梃子にしながら「改正」案そのものを批判したんだけれども、今度は、「改正」されたものに関して、その視点で解釈を深めなければならないし、まさに改悪の実現を許さないという一つのポイントとして、法解釈の問題が出てくるだろう、と思っているわけです。
 
 2条の設置に関しては、これは〝近代法の精神に反する〟ということを徹底的に言っておく必要があります。同時に10条に関係している新16条の「不当な支配に服することなくこの法律および他の法律にもとづいて」の中身について、国会でも、我われ研究者も批判をしたのですが、そもそもこの法律なるものの前提には憲法があるはずだと、これは政府としても否定することができません。この法律の前提として憲法をまず確認しなくてはいけない。
 それから「その他の法律」の中には、慣習法もあるし、条理法もある。つまり、法律というものは法学的に言えば、実定法があり、慣習法があり、条理法がある。「その他の法律」には当然、そういう法律が含まれるわけです。そういう解釈をつきだすことができるわけです。
 特に教育に関しては、法の規制になじまないという問題があります。つまり〝子どもの人間的な成長と発達、ゆたかな精神活動を保障しながら、その将来にわたってその実現を保障する活動なんだから、それをいちいち法律で規制すること自体が法になじまないんだ〟という、その原理が実は憲法の原理でもあるわけです。
 
 その憲法原理にもとづいて、この改悪教育基本法の解釈としても当然、何でも法律に書けば良いということではないし、他方でまた、その法律にはなじまない実際の教育実践がつくりあげてきたさまざまな慣行がある。それは子どもの発達に必要な学校運営のあり方、あるいは教師の研究に裏付けられた実践とその自由、そういうものが保障されないと教育はゆたかにならない。これは戦後の教育を通して、先生方が本当に実感しながらつくりあげてきた実践の蓄積、そしてそれを貫く原理といいますか、慣習法があるわけです。これは、学校運営に関しても、職員会議をどう位置づけるかというような問題で、慣習法的に蓄積されてきたものがある。もちろんそこで〝会議は決定権を持っているのか〟〝校長に対する助言の機能を持つのか〟というような問題があって、そこには管理職とそれから教職員集団との関係を問い直すという問題も含まれています。単純に「校長=敵論」ということではなくて、〝本当に子どものために、子どもの発達を軸にした学校運営というものはどうあるべきなのか〟〝そこで校長はどういう役割を果たすべきか〟――これはやはり、学校運営の慣習を通して指摘されてきたことがある。そういう慣習法の問題。
 
 それから条理法の問題がある。これは、まさに教育の条理にもとづいて解釈しなくてはならないという問題です。だから、法律の解釈に関してだって、実定法の文言をいじりまわすんではなくって、その〝背景になっている教育とは何なのか〟という、その本質から法の条文を読み直していいわけです。石元さんが今日のあいさつの冒頭で、「憲法および教育の条理」という言葉を使われました。少し前でしたら「憲法および教育基本法、そして教育の条理」ということを言えたと思うんですけれども、教育基本法という言葉が残念ながら言えない状況がある。いずれにしても「憲法および教育の条理」という言い方で、表現しても良い。つまり16条の解釈問題として、条理法の問題がある。
 
 それからもう一つ。国際条約も非常に大事な「その他の法律」なわけです。ご存知のように条約というものは、国内法に優先する法的な効力を持つものとして、国際法的には理解されている。ですから、例えば子どもの権利条約に関しても、国連の権利委員会は〝これは国内法に優先する効力をもっているのに、日本の政府が特に裁判等々で決して利用していないのは、おかしいではないか〟という勧告も出されているわけです。そういう意味でも、「その他の法律」の中には、慣習法、条理法、そして国際条約、そういうものが入る。そういう全体を通して、教育の条理というものがゆたかに展開している。
 この「条理」というのは「事柄の本質」という意味なんです。その「事柄の本質」とは、子どもを育てる、その人間的な成長と発達を助ける仕事、そこから必然的に導き出される原理、これが「条理」なわけです。そういう「条理」をそれこそ元の教育基本法体制の下で深めてもきたわけですし、〝国際条約も発展しているんだ〟という、そういうとらえ方をしなければなりません。
 
 16条は悪法だということに違いないんです。つまり、それを使って管理統制を強めようということは間違いないわけです。ですから、例えば裁判に関しても、10・23通達を批判する予防訴訟があり、昨年の9月21日に東京地裁判決が出たわけです。あれは、憲法19条に違反し、教育基本法第10条に違反するという判決だったわけです。ところが、その基本法が変わりました。そうすると我われは批判の根拠を失うことに、すぐになるのかどうかという問題になるわけです。むこうは、〝そういう批判をされたくないから変えたんだ〟と言うでしょう。しかし、少なくとも裁判に関して言えば、元の教育基本法時代の事件ですから、新法をそれに適用することができないということが一つあります。同時にそれだけではなくて、予防訴訟で先生たちが訴えた内面の自由、そしてそれが子どもの内面の自由のゆたかな発達にもかかわってくる、教師に対する強制が、子どもに対する強制につながってくるという、その論点それ自体は、こちらの主張としては貫かれるわけです。
 
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