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全教のとりくみ
【行動】2007/03/11
改悪教育基本法の具体化をゆるさず、民主教育をすすめる学習・討論集会【講演②/2】
【講演】堀尾 輝久 民主教育研究所 代表(東京大学名誉教授)

※本稿は、3月11日に開催された「改悪教育基本法の具体化をゆるさず、民主教育をすすめる学習・討論集会」での講演を、本HP管理者がまとめたものです。
 
 
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憲法・子どもの権利条約が提起している条理に基づいて

 その論点を擁護する条文として、憲法19条があることはもちろんですけれども、改悪教育基本法だって条理にもとづいて解釈するべきです。そして、その改悪教育基本法の条文も憲法を前提にしているわけです。教育の自由や自律性の原理というのは、憲法原理であって、教育基本法に書かれているからそれがあるというわけではないですよね。むしろ憲法原理をもう一度、教育法の領域で確認した、より具体的に深めてきたというのが基本法の意味ですから、そういう意味では、この批判の論理は今でも有効だと考える必要があると私は思っています。
 そして、これからの問題を考える場合に、残念ながら基本法は改悪されたんだけれども、さっきから言っているように、憲法があり、子どもの権利条約を含む国際的な条約、あるいは子どもの権利宣言の原理というものがある。それが提起している条理というものがある。それで改悪された法律もきちっと解釈されなければならないという主張をするという、そういうことを含んで対応することができると思うんです。
 そうした場合に、我われ自身のこれまでの考え方、子どもの位置づけ方、権利のとらえ方、そういうものが同時に問い直され、深められなければならないという課題がそこにあるということでもあるんですね。
 翻って、私たちの実践の軸には子どもの権利というものがすえられているはずですが、そもそも〝権利というのは何なのか〟――「権利」というものを深くとらえるということが私たちは非常に大事なんです。〝子どもの権利とは何か〟という問いは、ある意味では新しいわけです。だから古い憲法学者など、〝子どもの権利など何かよく分かっていない〟という人たちが結構たくさんいます。そもそも日本国憲法で日本国民の権利と言われているけれど、〝国民の中に子どもの権利は入るのかどうか〟と聞いた場合に、一瞬戸惑うという状況もあるわけです。それから、この教育基本法「改正」論議の際にも、「基本法には子どもの権利の視点がないから、それを入れる『改正』が必要ではないか」という議論をした人もいるわけです。そんなことを重ねながら本当に〝子どもの権利とは何なのか〟――そして〝人権とは何なのか〟〝人権と子どもの権利との関係はどうなるのか〟――そういうことが原理的に深められなければいけないと、私は強く感じていたわけです。そして、これまでもそういう議論を繰り返しやってきて、教育法学会にも提起してきているんですが、なかなか共有されないというもどかしさを感じています。
 こういう事態になっていけば、いっそう私たちの憲法理解を深める、そのためにも「子どもの権利」の視点から、憲法の人権条項を読み直すという、その作業が大事になってくる。これは〝憲法の条文を子どもにも適用する〟という発想で考えている限り、うまくいかないといいますか、説得力を持つ論にはならないと私は思います。そうではなくて、〝「子どもの権利」を軸にして、憲法の人権条項を読み直したら、どういう読み方ができるのか〟ということになる。
 しかし、〝子どもの権利とは何か〟という議論をしていると時間がとても足りません。もう時間がきていますので、そこはちょっと置いておきます。
 

「子どもの権利」の視点から憲法の人権条項を読み直す

 私が言いたいことは、つまり「子どもの権利」というのは、子どもが子どもである権利だということです。当然子どもが人間であることを前提として、子どもは子どもである、ゆたかな発達の可能性を持った存在である。その現在を保障することは、その未来をも保障することにつながる。そういうとらえ方をして、「子どもの権利」をとらえた場合に、その視点というのは、「人間の権利」のとらえ直しにつながってくる。「人間の権利」というのは何なのか。憲法の条文を思い起こしながら、13条、幸福追求の権利云々というところから、「人間の権利」を発想するのではなくって、「人間の権利」というのは、人間は子どもであり、青年であり、老人である。それぞれのライフスタイル、ライフステージにふさわしい権利の内容ということが考えられなければいけないという仕方で、人権全体をとらえ直す視点が「子どもの権利」ということになるんです。ですから、〝人権を子どもにも適用すれば良い〟という発想とはぜんぜん違うんです。
 そして、そのうえで、子ども時代の子どもにふさわしい権利、それはどういうものなのか、当然、その前提として子どもは、人間としての「生存の権利」「生活の権利」というものがある。そしてその中には、「幸福追求の権利」が当然含まれるわけだし、その幸福追求ということは、人間的な成長発達が保障されてはじめて、幸福追求も可能なわけです。その成長発達にとって「学ぶ」という活動がいかに大事であるか、そして、それぞれにふさわしい「学び」にふさわしい教育を求める権利。そこには「意見表明の権利」というものも入るでしょう。そういう仕方で、「子どもの権利」をとらえる必要があると思います。
 そして、その権利というものが憲法条文との関係ではどうなるのか、〝憲法は「国民の権利」と言っているのであって、子どもの権利ではない〟なんてことを決して言わせない視点を持ちながら、そうした場合に、憲法の中にも、例えば11条の基本的人権の最初のところには、「現在および将来の国民の権利」という言葉がある。97条にも同じ表現がある。そして、前文には「我われの子孫の未来を含んでいる」という表現もある。
 そういうところに当然、子どもが含まれているわけですし、子どもだけではなくって、「まだ存在していない未来世代の権利」の視点も、実は憲法を読む場合に、読み込むことができるのではないかと私は思っているんです。
 

未来世代の権利 〝将来にわたって〟との視点

 未来世代の権利というのは、これは新しい視点なんですけれども、まだ生まれてない世代の権利を〝我われが保障しなくてはならないんだ〟という基本の姿勢を持つ、これはとくに環境問題など深刻になる中で、いっそうその視点の現実性というものが、強く我われに迫ってきているわけです。そういう視点を含んで、まさに「子どもの権利」というものが、人権保障の体系でどうなっているのか、「幸福追求の権利」を「子どもの権利」の視点で読み直す、それで19条の「思想・信条の自由」という問題、あるいは20条の「信仰の自由」という問題、これも子どもにとってどういう意味を持つかということになると、その現在の子どもの「思想・信条の自由」だけでなくて、将来にわたってという視点が入らなければならないわけです。
 子どもはまさにゆたかな可能性を持った存在ですから、それに対してフレキシブルに対応しなくちゃならない。例えば、「愛国心」の問題なんかもいっそう丁寧な、フレキシブルな対応をしなければならないわけだから、一定の価値観を押しつけるようなことは、あるいは枠にはめるようなことは、あってはならないということになるわけです。
 それから23条に「学問の自由」という規定がある。「学問の自由」は、〝大学研究者の自由・大学の自治なのか〟――憲法学の伝統的な解釈からすると「学問の自由」「大学の自治」――そして、その教育の自由がだんだんと下におりてくるというのが歴史の推移です。それで〝小学校の先生も自由を持っていますよ〟という筋で解釈をする可能性があるわけです。それは憲法学からすれば、一つの歴史を含んでポジティブな方向ではあるんだけれども、23条の「学問の自由」というのはまさに「国民の権利」として書かれているんですよね。その「国民」の中に当然、「子ども」がいる。ですから、子どもにとっての「学問の自由」というものが保障されているととらえなければならない。〝学問は高度なもので、学習は低レベルなものだというような考え方をしてはいけない〟という問題を含んでいるわけです。「学び」と「学問の自由」というものがまさに1セットでとらえられないといけない。だから、私はこの23条解釈というのは非常に大事だと思っているんです。
 いま、「学習権」という言葉が、これは最高裁判決でも使われるようになってきています。これは非常にいいことだと思います。教育の本質に即して「学習権」というものが提起され、そして26条解釈の前提として「学習権」というものが位置づけられてきた。同時に、その「学び」の権利から、23条を読み直すといいますか、そういう仕方で23条を読み直すこともできるし、23条と26条というものが統一的に理解されなければならないということになるわけです。そしてやがて社会に出て、「労働を学ぶ」ということも、子どもの「学び」の権利の中に含まれなければならない。学校と労働社会の接続の問題も学校自体が意識しなければならない、そういう問題を含んで、憲法のとらえ直しということが可能なんです。そういう視点が私は非常に大事になっていると思います。
 

憲法と子どもの権利条約の統一的な解釈も

 そういう視点を含んで、憲法と子どもの権利条約を統一的に理解することは可能だと思います。条文をつき合わせるということで可能というより、その前に教育の条理という、子どもの発達とはどういうことなのかという、その条理に即したとらえ方を私たちが持つ事によって、憲法と子どもの権利条約の統一的な解釈も可能になってくる。これは難しいことではなくて、私たちが、先生たちが、日常的に子どもに接している中で培われてきた子ども観、教育観であるはずです。そして「子どもの権利」というのは、実は「権利」の前に、「子どもの要求」があるわけです。その「要求」を必要なものと考え、そして、それは当然なものであり、それが「権利」という言葉に表現されてくる。
 そのプロセスを考えれば、私たちの教育は子どもの要求に応えるというのが基本なわけですし、「子どもの権利」というものをまさに小さい時からの、それこそ乳幼児からの「子どもの権利」をどう保障するかというコンテキストで考えれば、例えば「意見表明権」などは、この言葉のない乳幼児が泣いたり笑ったりする、あるいはジェスチャーで要求を表現する、それに耳を傾け、振り返り、そしてきちんと応える、そういう人間関係をつくるということが「意見表明権」の、実は中身になっているわけです。このことは一昨年の子どもの権利委員会の一般的なコメントの中で、示されたわけです。そういうことも重ねながら「子どもの権利」をゆたかにとらえ直す。それは憲法の人権条項を読み直すということにもなる。
 そして、「大人へのウェーティングサークル」というイメージを持って子どもを見るのではなくて、子どもを含んで人間社会というものはあるんだという、当然のことを当然のこととして理解するという子ども観や、人間社会の像(イメージ)というものをつくっていく必要があるのではないかと思っている。そこに未来世代の権利の視点も、もう一つ重ねてとらえ直される。憲法には実はそういう視点が読み取ることができます。
私たちは憲法も、教育基本法も「未完のプロジェクト」というとらえ方をしたんですけれど、それはいま私が言っているようなことは、「未完のプロジェクト」だからいろんな解釈や思想を発展させる可能性を含んでそこにあるのであって、決して古いものではないんだというとらえ方もできるわけですね。
 
 ですから、強調したいことは、法律が変わった、しかしそこで絶望するということではない。私たちは、私たちの、いわば国際的な感覚というのが非常に求められることになるし、同時に子どもというものを深くとらえることによって、憲法と子どもの権利条約を統一的にとらえる。そこに我われの言わば、教育という事柄の本質を深くとらえる条理へのまなざしといいますか、そういうものがあるわけで、これは歴史を通して、教育とは、教育の本質とはこういうものだという言い方ではなく、歴史を通してゆたかに発展してきたもの、そういう意味ではあくまで相対的なものだけれども、より普通的なものへと開かれていく、そういう感覚で事柄をみなければいけないし、さまざまな意見が教育に関して、子どもに関してあるのは当然なわけで、それを法律で縛る、あるいは政策的に枠をはめるということは決して許されない。そういうことだと思います。

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