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【集会】2008/12/11
教員免許更新制の廃止、2009年度からの実施凍結を求める12・11中央集会を開催!【講演】②/2
はじめに 
 
1 混迷と矛盾を深める教員免許更新制

免許更新制度の根本的矛盾・混乱 
(1)「更新講習内容は、免許継続可能かどうかを判定するものではありえない」 
(2)「そういう研修であれば、そこに試験を持ちこんで、合格レベルを<S・A・B・C>に段階分けすることは全く意味がない」 
(3)「そもそも大学は、教師として適格か不適格かを判断する情報を持たず、そのような人権にかかわる評価制度に不可欠な異議申し立てシステムも設定されていない」 
(4)「大学の学問研究の自由、研究者の責任で内容を決めなければ積極的な意味はない」 
(5)「現場経験を蓄積してきた教員の研修として実質的に意味があるか――かえって時間と費用など多大な負担を現場教員に押しつけマイナス効果を生み出すもの」

添付ファイルなし

2 「評価」問題と「大学における研修」のあり方について 
 
(1)評価問題議論の視点 
 
 私の大学でも、私自身が免許更新講習の企画責任者として、一定議論をしてきました。その時に、「評価問題」をどう考えるかが非常に大きな課題となりました。
 
 というのは、大学の中の議論では、この問題性が見えにくいということがあるように思うのです。私たちのプランづくりの中では、日本文学の先生方が国語の部分の18時間研修を引き受けてくれました。内容はすごくいいものです。文学部の日本文学科では、「平家物語」から芥川龍之介とか、現代の文学まで、それぞれに研究してきた先生方がおられます。それで、その専門の文学領域で、教科書に載っている作品――「平家物語」だとか、「源氏物語」とか「羅生門」とか――の「今日の研究の到達点はどこにあるか」ということを紹介して議論をしようという内容を計画してくれているんです。しかしどうしても、「やるからにはきちんと評価したい」という傾向がでることがあるのです。そこが難しい問題なのです。それについては、私は以下のような趣旨をお伝えして、議論をお願いし、了解をいただいてきました。
 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
  
◇受講者の「評価」をどう考えるべきかの視点 
 
① 大学として厳密に責任を負うべき評価とは、研修にとりくんだかどうかにあること。
 
② 合格者のその合格の中の区分がどの程度であったか(たとえばS・A・B・Cのどれか)――以下「詳細な評価」――という点については、そもそも全国的な客観的基準があるわけではないので、あくまで個別大学の独自の評価基準となる他なく、出来るだけ抑制的であるべきものであり、必ずしも数値的なものである必要はなく、したがってまた他の大学で研修を受けた教員の評価と比較することには意味がないこと。
 
③ 従って、そういう「詳細な評価」が意味があるとすれば、個別大学の研修に関しての形成的評価(指導と援助のための教育的な評価)としてのみであること、
 
④ 同時にまた、大学の講習は、教員としての資質についての評価ではなく、あくまで特定のテーマについての研修に関する学習の理解度であって、その「理解度」としてのテストの点数が、教員の免許の更新に値するかどうかの判断基準として用いられる根拠はないこと。
 
⑤ 従って、そういう「詳細な評価」が大学内の研修の場を離れて意味を持つようなこと――例えば教員の人事考課に使われるようなこと――は避けるべきであること。
 
⑥ 文科省も今のところはその「詳細な評価」を外に知らせることを求めておらず、また教員が所属する教育委員会への研修についての結果は、合格かどうかだけであるので、「詳細な評価」を行うとしても、それはあくまで大学内、あるいは大学と個別受講者の間に止めるべきこと。
 
⑦ しかし文科省はその「詳細な評価」の「ランク」のひな形を提示し、その割合を平均化するために、一般に公開することを求めてきた経過があり、それはこの評価の以上のような性格に反していること。
 
⑧ 従ってこの矛盾にどういう対応をするかは、今後の慎重な検討課題であること。 
 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 この論点は、大学がどういう講習を行うかというところで、講習にとりくむすべての大学で議論するべき視点だと考えております。しかし今のところ、そういう議論がどこかの大学で行われているということをどこからも聞いていません。多分、内部でそういう議論が行われていると思いますが、それをオープンにして、全国の大学で、いわば公然と議論をし、大学間の交流もして、世論にする必要があると思います。それなしに、個別大学内部で、「困った」と言って「文科省に何とかならないか」とお伺いを立てて悩んでいるだけでは、決して積極的な方向を見いだすことはできないのではないでしょうか。
 
(2)免許更新講習の「伝達講習」化と公定学説の誕生の危険性 
 
 大学が研修を行うという点で、今回の更新講習には「伝達講習化」と「公定学説の誕生」という危険性があります(廣田健「免許状更新講習の問題点と課題」『人間と教育』59号、08年9月、旬報社)。その点を自覚してとりくむ必要があります。
 
 選択領域(教科内容に関する18時間講習)については、現在のところ内容的にはほとんど制約が無く、大学側のイニシアティブに任せられていますが、必修領域(「教育の最新事情」に関する12時間講習)については詳細な項目規定があり、そこに示されている項目と時間的制約との関係を考えると、およそ大学の研究にもとづく内容での講習には適合しない可能性があります。
 
 特に、必修項目の中には、改正法令、学習指導要領などの趣旨、内容の周知徹底(服務事項にかかわる管理的内容――「学校組織の一員としてのマネジメント・マインドの形成」等――が含まれており、大学の研修に相応しくないものです。それは行政の行うべき課題であり、大学が行う研修内容ではありません。行政は、法定された服務規律について教員に伝える義務がありますが、大学はそういう責任を負うものではありません。むしろ大学は、そういう服務規律のあり方を含んで、自由に学問的、批判的に研究する場であり、そういう学問研究の成果を教員に提供することで、教員の自主的な判断力、専門的力量を高めることを目的としなければなりません。したがって、文科省や行政の方針の「伝達」を大学が行うということは避けなければならないことです。そうでないと、先生方の自由な判断を逆に学問的権威を借りて抑圧する役割を、大学が担うことにもなりかねません。
 
 また、必修領域は多岐に渡るため、これをこなすためには少数の大学教員で担当することが難しく、多くの大学教員や研究者、あるいは選ばれた教員が、細切れの「説明」をすることになりやすく、およそ学問的香りのないものになってしまう可能性が高くなります。大学の研究がどういうものか一定の興味を持って参加された先生方にそういう内容を「講義」することになると、そんなものを聞かされる現場の先生方こそ、大変な迷惑と言うほかありません。
 
 以上のような問題性は、講習のためにつくられつつある『テキスト』に色濃く表れつつあります。ある『テキスト』の試行版の内容を見てあきれました。それは、そのテキストのおよそ半分を占めている「教育政策の動向についての理解」という部分です。そこに何人かの研究者と思われる方が書かれているのですが、学習指導要領についての「論文」で引用されているものは、ほぼ全部政府・文部省の答申と学習指導要領と、文科省あるいは中教審のインターネットのサイトだけです。研究書や研究論文からの引用や検討が全くと言っていいほど無いのです。要するに学習指導要領の文科省サイドからの「解説書」になっているのです。その「解説書」がテキストになってこの免許更新講習をやる。要するに文科省の指導講習、伝達講習と何も変わらない。そういうものがテキストとして出回って、そして大学がそれを使って講習をする。こういう馬鹿げた、大学にとって恥ずかしい状況がすでに出現しはじめています。「伝達講習化」と「公定学説の誕生」という事態が生まれはじめています。
 
 しかし、こういうものは出ますけれども、それとは逆の、「学問研究の水準からすれば、学習指導要領についてこんな論争があって、そして、こんな問題がある」という――研究者の良心からすれば、当たり前の――内容を講習することについては、相当委縮ともいうべき状況があるように思います。しかし、大学の中でもし本当に価値のある研修をやるんだったら、そういう学問的良心に立った内容を大胆に提供することが必要です。そういう大学が沢山でてきて、文科省の意図とは違った「研修」になるように組み替えなければなりません。 
 
 
3 教師の研修のありようについて 
 
 免許更新制について考えるためには、そもそも教師の研修はどうあるべきかという前提のところを考える必要があります。
 
(1)教育実践と教育価値探究の科学的なプロセスとの関連 
 
 まず、今教育現場に導入されつつある「PDCAサイクル」なるものと、本来の教育実践の自由のサイクルとを比較、検討してみましょう。2つを比較する構図を見て下さい。右側が「目標管理手法としてのPDCA」で、左側が「教育実践の自由のサイクル」です20090121165742_1  この2つはある面で似た構造を持っています。両者に「課題」があり、そして「仮説」を立て「計画」し、「実践」をして「総括」をするということが組み込まれています。実は、これは科学的研究や科学的教育実践サイクルにとって不可欠な要素なのです。「教育実践の自由のサイクル」という点で見れば、「課題」をたて、「仮説」を組み立て、それに基づいて「実践」し、その結果について「総括」をし、「仮設」が正しいということであれば、そこで教育的「真理」が発見されていくわけです。何を「課題」にするかということは、まさに「子どもの権利」の実現という目的に沿って、子どもの現実や親の要求に基づいて自主的に設定し、その課題の実現のための「仮説」をつくり、「実践」し、「総括」して「真理」を「発見」していくというサイクルを回転させるわけです。その課題の設定について、権力的な介入があってはならない。ですから課題をどう設定するかという点で、まさに「教育の自由」が保障されなければならない。「教育(実践)の自由」というものは、子どもの課題にせまるための不可欠な論理であるわけです。そしてその中で、教育的真理が蓄積されていくのです。そのような「自由」の必要性は、教科書裁判の杉本判決(1970年7月)の中で、教師に学問の自由が保障されるべきであるとして、明確に述べられているところでもあります。
 
 ところが、今学校に導入されつつある「目標管理手法としてのPDCA」の中では、「課題」は、文科省なり、教育委員会なり、場合によっては校長とかが、このサイクルを統制するものとして、子どもと格闘している現場の「外」から与えるのです。そして、その「課題」をどれだけ効率的に達成したか、そのために「計画」を立て、「実践」を行い、それを「総括」してダメだったら、改善するというサイクルになります。
 
 これは工場における品質管理方法、工場の労働者の一挙手一投足をどれだけ無駄のないものにするかという労務管理の方法だったわけです。「目標」は工場主とか、経営者が決めるわけです。それと同じサイクルを持ちこむということは、子どもたちがいま何に困っているか、教育はどういう真実をいま子どもに伝えるのか、あるいはいまの社会で何をこそ子どもに伝える必要があるかという、その「目標」の部分は全部教師や個別学校の関与をはずすということです。教育の目標や教育内容、あるいは方法までも、上から指示されたとおりにせよ、与えられた課題をただ「効率的に」実施するためにだけ工夫をせよということです。こういうサイクルを持ちこむから、この目標管理システムは、教師を国家や行政に従属させるシステムになってしまう。学力テストで何点という目標に従って、どれだけ効率的に成果をあげるか、さらにそれで給料も差別されるということになってくる。そういう、およそ学問的真実の探求としての性格を剥奪された教育管理システムが出現してしまうわけです。
 
 教師の研修、力量形成という点で言えば、実は教師の力量が蓄積されていく一番の保障は、この学問的真理、教育的真理発見のためのサイクルを教師が日常的に、しかも意識的に繰り返すということにこそあるのです。これは先生方の実感でもあると思います。先生方は、「いまどういう力量をつけなきゃいけないか」ということを毎日、毎日考えている。教師が力量をつけるという努力をしていないという攻撃がかけられていますが、先生方は力量をつけるということを切実に求めているし、自分の力量が高まって、教えることが楽しく、子どもが成長してくれることを願っています。この気持ちは絶対に偽りない。そういう願いを実現するために何よりも必要なのが、この教育実践の自由で、科学的なサイクルなのです。ところが、そのそのプロセスを保障しないで、教師に上から課題を押し付け、いうとおりにしろと強制を強めているのです。
 
 この2つのサイクルの質の違いをはっきりさせて、教師が教師として成長していくもっとも根本的で日常的なこの教育の自由、教育研究の自由のサイクルを、学校現場に回復することが必要なのです。補足すれば、そのサイクルは、親や子どもを排除するものではなく、むしろ親や地域もこのサイクルに参加して、教育がどうあるべきかを、教師とともに探究していく教育創造の担い手として位置づけられるべきものです。
 
(2)本来の研修のあり方について 
 
 本来の研修のあり方について考えてみると、今日の教師の研修の原則的なありようとして以下のような点をあげることができます。
 
 第1の原則…日々の教育実践が持つ真理探究的、技術蓄積的性格を最大限に保障する。
 第2の原則…自由に研修に取り組む時間、休暇(夏期休暇を含む)を保障する。
 第3の原則…職務研修に研究の自由を保障する。
 第4の原則…新任教員の力量蓄積を保障する自由と時間と支援を保障する。
 第5の原則…長期的視野にたって、専門職に相応しい長期の休暇研修を保障する。 
 
 新任教員の現状という点では、今、相当数の新採教員が挫折し、自殺に追い込まれたり、教職を断念したりしています。それは今の教育現場の困難によっているとともに、実は新採教員を支え励ますようなシステムや職場の関係がなくなっているという点にこそ問題があります。新任教員研修もそれを支えるものとはなっていません。ベテランでさえ学級崩壊に襲われるような中で、周りの監視の中で、失敗を許されないような管理的研修が強制されるならば、ますます孤立と緊張を高め、ストレスが高まり、病気になったりしてしまいます。そうではなしに学校の中で、授業時間を他の先生の半分くらいにして、他の先生の授業を見たり、指導案をつくったりすることを保障し、周りがそれを支える。私は学生によく言うんですが、「これから教員になった人は、自分のせいで学級崩壊するんだと考えなくていいです。学級崩壊の状況から出発するんだと考えて下さい」と言っているんですが、まさにそういう状況なわけです。新任教員が自信を持てるように現場でていねいに時間を与えて、教育的力量を高めてもらうことが重要です。
 
 教師養成のイメージについてみると、全体としては現場に入る時に一人前の教師のミニモデルに照らして、それを全部備えてないとダメだという教員養成に今向かっています。しかしそれは無理で、成功しません。最初からそんな力量がつくわけありません。むしろ新採1-2年目を、そういう実践的な力量を獲得するための教員養成の期間として位置づけて、それに相応しい新採教員の研修と教育実践をやる自由を保障することが必要です。
 
 そういうことを前提としていえば、教員になる学生に対して大学の中で一番必要な教育は、私がいま言いました教育実践の教育的真理探究のサイクルをきちんと研究的に展開していけるような子ども観と、研究力量――もちろん教師に求められる技術や教養の基本の獲得とあわせて――を身につけさせることだと思います。「現場で10年くらい努めたベテランのような教師を大学が育てなければいけない」と考えると、それはまったく実態にあっていないし、非現実的です。ここのところをしっかり見て、教員養成のあり方をしっかり確立しなければなりません。

20090121165742_2

おわりに 
 
 今、この免許更新制や、新しく大学で実施しなければならない「教育実践演習」科目のあり方をめぐって、文科省の大学への統制が強まってきています。その背景には、力のない教員が大学から送り出されているという批判もあります。
 
 その際、大学の教員養成制度が持つある限界を視野におかなければなりません。今日の大学の教員養成では、全ての免許取得者が教師としての資質や教養を満たしているとは言えません。個別の科目の単位が取れたからといって、本当の教員としての力量があるかどうかの判定とはある程度ギャップが含まれざるを得ません。それをおぎなうものとして、一つは教育実習というのがあります。さらに教員採用というハードルが設定されています。 今日の問題の一つは、この教員採用が、うまく機能していないということです。教員採用を、大分県のような事件が起こるものから、抜本的に改善していくことが必要です。採用委員会を教育行政から独立してつくり、大学の教員やベテランの教師、親等も含んで、そういう人たちがちゃんと入って、可能な部分は公開された場で審議して、採用していく。その際には、大学の成績もきちんと参照することが大切です。
 
 この間の文科省の行政で、重要な変化があります。免許更新や教員養成課程設置認可にかかわって、文科省は、「是正勧告」と「過程認定取り消し」という強い権限を行使しようとしています。資料にありますが、文科大臣は各教員養成課程でそれが法律どおり実施されているかの「報告」を求め、そしてそれが適当でないと判断されるときには「改善」を勧告し、改善をしなかったら「認定の取り消し」ができるということになりました。
 
 従来は、大学が免許課程の申請をして認定されれば、日常的にシラバスがどうとか、いまどんな授業をしているかとか、そこに文科省が介入して何か言うことはなかったのです。ところがこれからは、そこに介入して、例えば学習指導要領をちゃんと教えているかとか、場合によっては、「これは不適切だ」と言って課程認定を取り消すこともできる。これは教育改悪3法などで盛り込まれた文科省の「是正勧告」などを、大学の教員養成課程に対する統制にまでも広げていこうとするものです。
 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
<<資料>>文科省通知 2008-12 
 
 改正省令又は今回制定した告示の概要及び留意事項は下記のとおりですので、関係各位におかれては、その趣旨を十分御理解いただき適切に対応されるようお願いいたします。
 
◇ 教育職員免許法施行規則の改正の概要
 
1.教職実践演習の導入(略)
 
2.総合演習の位置づけの変更(略)
 
3.教職課程の是正勧告・認定取消し
 
(1)文部科学大臣に対する報告
 文部科学大臣は、認定課程につき必要があると認めるときは、認定課程を有する 大学(以下「課程認定大学」という。)に対して当該認定課程の実施について報告を求めることができることとしたこと。(第22条の2第1項)
 
(2)是正の勧告
 文部科学大臣は、課程認定大学が以下の場合に該当する時は、免許法第16条の3第4項の政令で定める審議会の意見を聴いて、当該大学に対し、その是正を勧告することができることとしたこと。(第22条の2第2項)
① 施行規則第21条第2項、第22条、第22条の3の規定又は第23条の規定による文部科学大臣の定めに違反しているとき
② 認定課程の教育課程、教員組織、教育実習並びに施設及び設備が認定課程として適当でないと認めるとき
 
(3)認定の取消し
 文部科学大臣は、上記(2)の勧告によってもなお是正が行われない場合には、課程の認定を取り消すことができることとしたこと。(第22条の2第3項) 
 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
 最後になりますが、はじめに言いましたように、免許更新制講習のあり方について、私は大学の側が非常に自己規制的に対応していて、大学の学問研究の自由という立場からの積極的発言が少ないことが大きな問題だと思います。そして文科省に対して、「これはやりにくいから、もう少しこうしてくれないか」というところまではいくのだけれども、実はそのやりにくさはこの制度設計そのもの、この法律そのものの根本的矛盾にあって、もし大学が色々な事情からやむを得ず講習を引き受けなければならないのだったら、最低限この講習の性格はこうでなければならないし、大学の自治の下でそれを行うのだから、こういう内容でなければならないという明確な姿勢を取る必要があると思います。
 
 いずれにしても、今回の講習では、長年にわたって現場の先生方が蓄積してきた経験やスキルに対して、一体大学が、大学に相応しい研究の内容、到達点を携えて、本当に対等に議論できるかどうか、また現場の困難に対して、本当に意味のある支援を行えるかどうか、そういう意味では大学が試される場に引き出されるのだと思っております。そういう場で、大学としての本来のありようを実現するために、大学の中からがんばっていきたいと考えております。そしてそれは、この最悪の制度を廃止していく展望とも結びついた努力であると考えております。
 
 もちろんそのためにも、大学の側からも、制度廃止に向けて声をあげていくことが不可欠だと考えております。これで終わらせて頂きます。


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